美少女ロボット計画

宗教と科学の関係に関する問いかけは、17世紀より重要視されることが多くなってきました。両者の関係について述べられる一般的な論調は、凡そ次の3つがあります。

 

1、検証可能な事実を対象とする科学と、信仰の理由をあえて求めたりはしない宗教とでは、相容れない。


2、人間の欲求に対して別の立場から答えを出しており、本質的には相補的なものである。


3、仲睦まじい関係である。

 

然し実際には、上記の3つのように単純化された視点だけでは描ききれないほど、宗教と科学は複雑多岐、且つ実り豊かな関係です。例えば、キリスト教徒すべてが科学的な探求をしていなかったというわけではありません。また、著名な科学者が熱心なキリスト教徒だと公言することも多かったのです。

 

宗教と科学について考察する場合、「宗教」と「科学」の定義は厳密にしないほうが無難だと言われています。宗教と科学の現代的な定義が、時代を超えて正当性を持つと考えていては、実態とかけ離れ、作為的になってしまうだけです。

ロボットの時代での宗教は、そこから何かを学びとるだけの資料に過ぎません。

つまり、心をロボットのコンピューターにアップロードし、人体を機械の体に置き換えることで、人類をより賢く、優れた存在とすることを目的としています。

 

キリスト教と近代科学

17世紀に生きる人々にとって、自然についての「知」が、神の御業や計画についての「知」に連なるという前提は、自明のことでした。即ち、17世紀に誕生した近代科学は、キリスト教と密接な関係にあったのです。リン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現しています。

例えば、キリスト教会によって宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイは、神やキリスト教を否定して科学を唱えたのではない。寧ろその反対であり、ガリレイは、「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけではなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」と語っていました。

 

アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツは、神と自然の関係について激しく論争していました。「神は常にどこにおいても自然に働きかけている」と考えるニュートンは、「全知・全能なる神の所産である自然は、神の介入による手直しを一切必要としない」と考えるライプニッツから、「神の御業に関して奇妙な見解を示している」と非難されました。

ニュートンを擁護するブレーズ・パスカルは、ライプニッツの考えを踏襲したルネ・デカルトに対して、「デカルトを赦すことはできない。彼はその哲学体系のなかで、できれば神なしですませたいと考えたはずだ」と非難しました。

 

1687年にニュートンが発表した著作名は『自然哲学の数学的諸原理』なのであって、『自然科学の数学的諸原理』ではなかった。17世紀において、現在で言うところの「科学的な探求」を行っていた人は、自身のことを自然哲学者と呼んでいたのです。さらに、ニュートンが「自然哲学の根幹というのは、神の属性や神と自然界の関係を探求することなのだ」とはっきりと述べている通り、そもそも神のことを知り神と自然の関係を知るために自然哲学をしていたのでした。そのニュートンに「あなたは"宗教"と"科学"にどのように折り合いをつけたのですか」と問うことは本末転倒でした。

リン・ホワイトの言うように、近代西欧科学はキリスト教を母体として生まれたものなのでした。

 

科学主義

科学万能主義や科学教と呼ばれたり、思い込みの強さ・教条主義的・狂信的であることをはっきり表すために科学原理主義、科学崇拝などと呼ばれることもあります。

 

フリードリッヒ・ハイエクやカール・ポパーなどが、多くの科学者が根底に持つと彼らが考えた態度を指すために用いた。彼らは次のような二つの異なる批判的な意味でそれを用いる傾向があります。

 

1、科学を当てはめるべきではないような文脈において科学的な権威を用いていること、を明示するため。

 

2、自然科学の手法、自然科学で認められた範疇や概念が、哲学など他の探求分野でも唯一の適切な要素であるという信念(思い込み)。

 

グレゴリー・ピーターソンは現代の学者がどのような意味で科学主義という言葉に言及しているのかを概説し、二つの大きな用法を特定しました。

 

1、あたかも、科学は全ての現実と知識を記述できる、とでもするような見方、あるいはあたかも現実の性質に関する知識を得るための唯一の妥当な方法であるかのように見なす見方、を批判する用法。


2、ある一つの科学分野の理論や方法が、他の異なる分野(それが科学分野であれ科学以外の分野であれ)に不適切に用いられていることを指摘する用法。

 

第二の用法は、「人間の価値」というのは、伝統的に倫理学の領域であるのですが、その「人間の価値」を測る唯一あるいは主要な源として科学を見なそうという試み、また(伝統的に「意味」や「目的」というのは、宗教あるいは(哲学的)世界観の領域であるのだが)その「意味」や「目的」を測るために科学を用いようとする様々な試みを指すために使用されます。

『科学と宗教の百科事典』の著者マイケル・ステンマルクによると、科学主義と呼ばれる立場は、多くの形態と様々な程度を持っており一様ではありませんが、"科学の(中でも自然科学の)境界が、以前は科学の範疇だと考えられていなかった問題にまで拡大できる、または拡大されるべきだ"、としているところは共通している、とのことです。最も極端な形の科学主義は、全ての人類の問題と、人類の試みの全ての側面への対処と解決が、科学"だけ"でなしうるとする信仰である。このような観念は「進歩の神話」とも呼ばれている。ステンマルクは科学主義の同義語として、scientific expansionism「科学拡張主義」という語を提案しました。エルンスト・シューマッハはこのタイプの科学主義というのは、人間の価値についての問いかけの有効性をすっかり否定してしまうような、不毛な世界観だと批判しました。

 

定義

 

1、科学者によって示される典型的なスタイル、仮定、技術あるいは他の特質の採用。


2、自然科学者が持つと考えられている典型的な方法や態度。


3、哲学、社会科学、人間性など他の分野への自然科学の有用性を過大に信用すること。

4、社会科学が自然科学で採用されている科学的手法のいくぶん厳しい解釈として保たれなければならないという主張。


5、社会科学のいくつか、あるいは全て(例えば経済学、社会学)が、自然科学で用いられるいくらかでも厳格な科学的手法を保っていないという理由によって、科学ではない、とする信念(思い込み)


6、科学的、または疑似科学的な用語の採用。


7、ドグマ(教義)の一種。"科学が真実へ近づく絶対普遍で唯一正当化される方法だ" とする教義。原理主義者と同じ精神構造。